「不吉な影が見えるのですよ!」
「……あぁ?」
魔法だの何だの妄想癖が激しい可哀想な(と彼女は思っている)後輩の突然の呼びかけ。
ライラ神威は始めたばかりのストレッチを中断して、その後輩──ウィッチ美沙に目をやった。
「ひぃ! み、美沙を脅しても無意味なのです、先輩!
不吉の影は、美沙のせいではないのです!」
「いや……脅してねえって。 普通に見てるだけだろーが。 それより何なんだぁ? その不吉がどうのってのはよ」
「……先輩は今日、寮からジムに来る道で黒猫に前を横切られたはずなのです」
「あー。 そういや、そうだな」
「他にも何か、ちょっといつもと違うことがあったはずなのです」
「別にねーよ。 強いて言やあ、朝飯食ってて茶碗が欠けるは、箸が折れるは、スニーカー履いたら靴紐が切れるは、でイライラしたがよ。 どれもどーってこたぁねえだろ?」
「ライラ先輩……先輩は、意外にニブチンさんなのです。
それは全部、不吉な影、災厄の予兆、虫の知らせで凶兆なのです!
美沙の魔法によると、特に明日の試合が危ないと出ているのですよ!」
「はぁ? 明日の試合だぁっ?」
明日は、スレイヤー・レスリングの11月シリーズ最終戦だ。 *1b
三つものタイトルマッチが組まれ、その初戦ではライラも王者として登場する。
ライラ神威 VS 寿零の JSWヘビー級王座戦、
真田美幸 VS メロディ小鳩のアジアヘビー級王座戦、
そして、サンダー龍子 VS 森嶋亜里沙のスレイヤー無差別級王座戦。
団体所属の選手間で行なわれるアジアヘビーとスレイヤーの王座戦は、どちらも勝敗が読めない試合とされていたが、ライラがワールド女子の寿の挑戦を受ける JSW王座戦は、唯一「安牌」と見なされていた。
即ち、どう転んでもライラの負けはない、と。
「そりゃ、つまりあれか? 明日の試合、私が勝ってもケガするとかそういうことか?」
「ケガはしないかもしれませんが、このままだと間違いなく負けるのです」
「……ほぉ?」
「大丈夫です。 今日一日静かに過ごせば何とかなると魔法は言っているのです!
練習も早めに切り上げて、天使のような気持ちで穏やかに明日を待つと良いのです!」
「そうかいそうかい。 じゃあ、誰かをゲンコツで殴ったりなんてのは……」
「当然、絶対にやっちゃいけないご法度なのです! ──ふぎゃっ!!」
美沙の頭上と目の中で、火花と星が飛び散った。
「あうあう〜! 痛いのです、痛いなのです!」
と頭を押さえてジムを飛び出した美沙を横目に、ライラは殴った手を軽く振って舌打ちを一つ、チッ、と洩らした。
「意外に石頭だな、ったく。 ……どう間違えれば、あんな三下に負けるってんだ?
食いもんと植木鉢と車に気をつけときゃ、試合は問題ねぇだろ」
「……いひ♪ あんまりあの人をナメない方がいいと思うの」
「!? 小鳩っ……先輩かよ」
ケッ、またおかしな奴が出てきやがった、と心の中で悪態をつきつつも、突如出てきたメロディ小鳩のセリフが気になったライラは、その意味を問いただすことにした。
「ナメない方がいいだってぇ?
あんた、あいつ……寿零のこと知ってんのか?」
「ちょっとだけね。 昔、縁があって一緒に住んでたの♪」 *2b
「……そいつぁまた、ちょっとした縁だな、おい」
「だから、小鳩からもライラちゃんにご忠告よ。
零ちゃんをナメると、けっこうヒドい目にあうと思うわ。 気をつけてね♪」
「ヒドい目、ねぇ……」
ライラも、相手の力量を知らずに自分が勝つと信じているわけではない。
試合のビデオは何度も見て、寿零の実力は十分に把握したつもりだ。
その上で、自分の敗北はまずありえないと確信しているのだった。
寿が、今やワールド女子ではトップの南利美と並び称されており、その冷徹なファイトスタイルから“殺戮兵器”と呼ばれていることを知っていても、なお。
「──ま、相手が殺戮兵器だってんなら、こっちも遠慮なくぶっ壊せるな。
あんな能面女の血の色も赤いのかどうか、しっかり確かめてやるとするぜ!」
そして、翌日。
「やった……よ」
29分41秒、JSW王座は寿零の手に渡った。
ビデオより何倍も鋭い寿の掌底を何度ももらった上、勝ちが見えた終盤には流血のこだわりから単調な攻めを繰り返したことが、ライラの仇となってしまったのである。 *3b
「だから言ったのですよ、ライラ先輩!
美沙の魔法は絶対なのです! それを信じていれば今ごろは──ふんぎゃあっ!」
寿からは流血を奪えなかったものの、空気を読まずに文句をつけてきた美沙からは、裏拳一発で鼻血を吹き出させることに成功したライラであった。
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