「社長室でブランデーとは……ステレオタイプが過ぎますわ、社長」
あれから二日、雨は時おり小休止を挟みながらも降り続いている。
その雨を眺めながら夜の社長室でグラスを傾けていたスレイヤー・レスリングの社長は、ノックも無しに入ってきた女性秘書に、手にしたグラスを穏やかな笑みとともに見せた。
「君もどうかね? 井上くん」
「いえ。 お酒は得意ではありませんし、仕事もまだ残っておりますので」
「そうか。 では、一人で失礼するよ」
社長はグラスに口を付け、ややあって離すと、軽く息をついた。量はほとんど減っていない。
そこまでを無言で見つめ、それから井上は、社長に声を掛けた。
「社長、上原選手の件、お見事でした」
「どの件だね?」
「引退を納得させた件、ですわ。
社長自ら出向かれても説得は極めて難航、最悪は決裂も──との予測が外れたこと、自分の不明を恥じるばかりです」 *1C
──沖縄に、帰ろうと思っています……。
「……私が説得したわけではないよ」 *2C
「え?」
「いや……」
社長は、もう一度グラスに口を付けた。今度は喉仏が何度か動き、アルコールが嚥下されていく。
それを再び無言で待ってから、井上は口を開いた。今度は、声に軽侮の色が含まれている。
「しかし、精神面は意外と脆かったようですね、上原選手は」
「…………」
「例のスキャンダルのショックと、タイトル戦で敗れ、ついに無冠になったことが効いたのでしょうが……ふふ、老兵はただ消え去るのみ。 手がかからないに越したことはありませんね」 *3C
「──そういう言い方はやめたまえ、井上くん」
「……社長?」
「我々の団体の黎明期。 仮にも、それを支えた一番の功労者だ。 その上原くんに、そんな言い方は失礼だろう」
「……そうですね。 申し訳ありません」
井上は、素直に頭を下げた。
社長はそれを見るでもなく、ただ手にしたグラスの中を小さく波立たせている。
しばらくの間、沈黙が続き……今度も、井上の方からそれを破った。
「社長……少々おかしなことを申し上げても、よろしいでしょうか?」
「……なんだね?」
「実をいうと私は……以前のような見方で、選手たちを見られなくなってきているのです」
「…………」
「ずっと、こう思ってきました。 選手たちは、ガラスケースの中の宝石と同じ。
美しく輝き人々を魅了するが、我々にとってただの商品にすぎない──と。
なのに、そのはずなのに、皆と触れ合っているうちに、そうは思えなくなってしまった……そんな気がしているのです。
──社長、私は……いえ、社長はどう……」 *4C
「井上くん」
「……はい」
「そんなことでは困るな。 我々が情にほだされてどうするというのだね? そのような考えは、事業において百害あって一利なし。 我々は商品の価値を最大に引き出すための戦略と戦術を練るまでだ。 いかに非情になろうともな」
「……そうでした。 申し訳ありません」
井上は先ほどよりも深々と、頭を下げた。
それから井上は、今後の予定などを少し話し合ってから、社長室を退出した。
冷静この上ないその表情に、妖艶とも言える笑みが微かに混ざっていることを、社長は見逃していなかった。
「……いつか、君が私を評した言葉だったな、井上くん」
一人残った社長は、もうこの場にいない秘書に呼びかけるように呟いた。
「他者を欺き、自らを騙してまでも、目的を果たす。 その一点において、私は君にまさっていると……」 *5C
社長は、グラスをあおった。
僅かに残っていた琥珀色の液体を一気に飲み干し、広いデスクの上にグラスを置く。
「そうかもしれんな……」
窓の外で、雨はまだ降り続いていた。
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