7月初旬。 *b1
奇しくも、スレイヤー・レスリングにおいて中森と真帆がタイトルマッチの打診を受けていたのと同じ日に、WRERAの若手レスラー・小縞聡美もまた、社長に呼び出されていた。
「ああ、タイトルマッチですか? はーい、いいですよ〜」
こちらは、社長が詳しい説明をする前に、二つ返事で OKが出た。
これは小縞がウェイトレスとして培ってきたサービス精神の賜物──というわけでもないだろう。
ジュニアレスラーの小縞は、団体の先輩であるテディキャット堀の胸を借りる形で、すでに AACジュニアや GWAジュニアのタイトルマッチを経験している。
まだまだ勝ちを意識できるほど実力が追いついていないのは悔しかったが、「タイトルマッチ」というもの自体への抵抗や恐れは、特に持っていない小縞であった。
だから、
「ほぉ。 いいんだな? やっぱりやめる、とか言うなよ?」
という、人の良い社長にしては珍しくイタズラ心が見え見えの言葉にも、小縞はさほど警戒心を持たなかった。
「なんですかぁ、社長。 顔が笑ってますよ?
……あっ、もしかして。
今回は堀さんじゃなく、いよいよ千秋さんが相手なんですね?」
堀と同じく先輩である村上千秋は、WWPAジュニア王者だ。
堀と違って「後輩に胸を貸す」タイプでは無いことと、たまたまタイミングがずれたりしたこともあって、小縞はまだ、千秋のベルトに挑戦したことが無かった。
「大丈夫です! ちょっと痛そうで怖いですけど、全然問題ありませんから。
むしろ楽しみですよ〜!」
「……いや。 悪いが、千秋じゃないんだ。 他団体の選手への挑戦だよ」
小縞の笑顔を見てさすがに申し訳なくなったのか、社長は謝るように言った。
しかし、それを聞いた小縞の方は、さらに笑顔を輝かせる。
「ホントですか!? やったーっ!
他団体ってことは、今月参戦して来るワールド女子のキューティ金井さんですよね!
堀さんや千秋さん相手に比べれば、私にも勝ち目がありますよ!
社長、ありがとうございます!」
感謝の言葉には、これも実家のファミレス仕込みか、完璧なお辞儀が付いてきた。
それを前にした社長は、後悔にも似た感情を、引きつった顔に浮かべていた。
「こ、小縞。 あのな……」
「……あれ? だけど金井さんは、今はベルト持ってなかったよーな……」
「小縞……。 なんというか……すまん」
恐る恐る、といった動きで、社長が机の上に書類を出して、小縞の方へと押し出した。
首を傾げた小縞がその紙に目をやり──その動きが、見事なまでに固まった。
WWPA“ヘビー級”王座選手権 : 寿零 VS 小縞聡美──!?
「ほら、その、あれだ。
この前、桜井がスレイヤーの森嶋選手からそのベルトを奪っただろ。 あいつは IWWF王座も持ってるから返上したわけだが、そのこともあって、今月は暫定王者の寿選手がウチに参戦してくれてな。 いろいろ考えたんだが、なにかと都合もあって、お前の名が挑戦者に浮上したんだ。 はるかに格上だし、容赦の無いファイトで有名な相手だが、まあこれも経験だと思え。 うん、そうだ、経験だ。 何事も経験だよ、小縞」 *b2
後ろめたさのためか、急に饒舌になった社長の言葉を、聞いているのかいないのか。
小縞はしばらく口を半開きにしたまま固まっていたが、
「……しゃ……ば……」
「……小縞?」
「社長の……バカぁっ!!」
どこからともなく取り出された銀のトレイが、WRERA社長の頭を一撃した。
「楽勝。無謀」「WRERAやる気ないな」「何の演出? 伏線?」「ナメやがって」。
ワールド女子のファンや寿零のファンからの声は、以上四つに大別された。
同月行なわれたスレイヤー・レスリングでの AAC世界タッグ戦に比べても、さらに上をゆくほどの“格差マッチ”だ。 *b3
下馬評はもちろん、小縞自身を含む WRERAの選手たちの中にも、さすがに小縞の勝利を確信する者は──微かな期待や祈りならともかく──ただの一人もいなかった。
だが、とにもかくにも、小縞はあきらめることなく、勝利を目指して奮闘した。
そして、そんな者に対してだけ、勝利の──リングの女神は、時に気まぐれを起こしてくれるのかもしれなかった。 *b4
「……え? ……えええ? ええええええ!?」
《か、カウント3が、入ったぁぁぁ!?
WWPA王者、まさかの交代だあ!!
こ、小縞聡美、時間切れ直前の大金星ぃっ!
得意のダイヤモンドカッターが、あの“殺戮兵器”寿零を沈めてしまったぁ!》
59分10秒、決着は小縞の決め技・ダイヤモンドカッター。
粘っただけでも大善戦、引き分けなら大殊勲、といえる試合での、まさかの勝利。
ファンの歓声と拍手の中、小縞は先輩選手からもみくちゃにされながら、
(このベルト、ウチのファミレスに飾ったら、お客さん増えるかなぁ……?)
などと、現実感のわかない頭の中で、ぼんやりと現実的なことを考えていた。
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