タクシーのメーターは、幸運にも、ちょうどお釣り無しで払える金額を指していた。
運ちゃんがその金額を読み上げる前に紙幣と硬貨を押し付け、自動で開くドアをこじ開けるように飛び出すと、病院の玄関は目の前だった。
「──階段上がって左だねっ? ありがとな!」
駆け込んだロビーの受付で病室を聞き出すと、背中越しの感謝を残して階段を目指した。
危ないから走らないでくださいっ、との注意が受付から届いた時には、既に階段を一段飛ばしで駆け上がり始めている。
「302号室。 302……302号……」
そうしていなければ忘れてしまうとでもいうように何度も病室の番号を呟いて、五度目で三階にたどり着いた。
受付での指示が抜け落ちてしまったのか、そこでまず右を見て数秒。
それからようやく左を向いて──サンダー龍子は、自らの驚愕に呼吸を止められた。
302、と書かれた札が見える、開いた扉の前。
かしこまった立ち姿で部屋の中を見るショートカットの女性の横顔には、見覚えがあった。
たった三ヶ月という期間で、忘れられる相手では無い。
──なんで、あいつが──ここに?
──まさか、これも、あいつの──
息を呑んだ音が聞こえでもしたのか、その女性が不意にこちらへと顔を向けた。
視線が合い、向こうの表情が変わる。
慎み深く、穏やかで、優しげな、微笑み。
想像したのとは正反対の反応がむしろ、龍子の思考を真っ赤に弾けさせた。
「──井上ぇぇっ!!」
突進する。
たちまち恐怖と愕然と判断不能の色で染まった顔が、視界の中で大きくなっていく。
「あんたのっ! 仕業かぁっ!」
右腕が風を巻いた。
かろうじて拳ではなく平手の形を作った手が、目の前に迫った女性の顔に襲いかかり、激突した。 寸前で割り込んできた、別の顔面に。
「なっ!?」
「社長っ!?」
二人の女性の声は、壁と人間がぶつかった鈍い音でかき消された。
張り手を受けて半回転し、壁と豪快にキスする羽目に陥ったスーツ姿の男性が、まるでマンガのワンシーンのように、ずるずると床まで滑り落ちる。
「しゃ、社長っ! 大丈夫ですかっ? しっかりしてください、社長!」
さすがに慌てて介抱する女性の腕の中、目を回したままの男性にも、龍子は見覚えがあった。
「WRERAの……社長さん、かい……?」
その瞬間、龍子は自分が大きな勘違いをしたことに気付いたのだった。 *b1
「──社長さん、ごめん! 本っ当に、すまない! ごめんっ!」
302号と書かれた病室の中。
何とか打撲と軽い脳震盪で済んだ WRERAの社長に何度も何度も頭を下げて平謝りする親友の姿を見て、石川涼美はベッドの上で苦笑を浮かべた。
「もう、龍子ったら〜。
社長さんは、倒れた私をここまで運んでくれた恩人なんだよ?
その社長さんを、力いっぱいぶん殴っちゃうなんて……」
「ぶ、ぶん殴っちゃいないさ。 張り手が当たっただけで……」
「同じことですっ。
大体、社長さんが飛び込まなかったら、龍子は秘書の霧子さんを殴っちゃってたんだよ?
霧子さんにも、ちゃんと謝らないとダメでしょ?」
「わ、わかってるってば。
えっと……霧子さん、ごめん! 私がバカだった!
思いっきり人違いで勘違いしちゃったんだ! 本っ当に、すまない!」
「い、いえ、いいんですよ。 気にしていませんから。
さっき話してもらって事情はなんとなくわかりましたし、石川さんが倒れたと聞いて冷静さを失っていたわけですし……」
霧子はにこやかに応じたが、多少引きつり気味なのは否めない。
世界最高峰の格闘家に殺気とともに襲われるなど、滅多に味わえる経験ではないのだ。
「それにしても……その、スレイヤーの私、いえ井上霧子さんは、そんなに……?」
「ああ。 見れば見るほどそっくりだよ。 だから、てっきり石川に毒でも盛ったのか、なんて思ってね。 なあ、石川?」
「うん。 実は私も、目を覚まして霧子さんの顔を見た時、悪い夢かと思っちゃった……」
あはは、と笑う元・スレイヤー・レスリングの二人を前に、霧子は自分が続けるつもりだった本当の質問を呑み込むことに決めた。
(……あちらの井上さんは、そんなに、お二人に恨まれるようなことをしたのかしら……?)
「──それでだ、石川。 過労、だって……?」
「……うん。 ごめんね、龍子。 心配かけちゃって……」
二人きりにしてもらった病室で、上半身だけ起こした石川は、弱々しく微笑んだ。
龍子は、かぶりを振る。
「謝るのは、気付いてやれなかったこっちだよ。
フリーになってからこっち、マネジメントの類は全部任せっきりだった。
今はフリー選手も多くってリングに上がらせてもらうのも大変で、それで試合までこなしてりゃ、いくら頑丈で図太い石川だってキツいよな」 *b2
「頑丈で図太いって……これでもお姉さんは、か弱く繊細なつもりなんですけど〜?」
睨みつける石川も、そ知らぬ顔の龍子も、目は笑っている。
互いに謝る状況は同じでも、三ヶ月前、スレイヤー・レスリングを退団した時とは全く異なる今の二人だった。
「でも、そうだね……。 ちょっと最近は、キツかったかな〜」
石川は、身を倒して枕に頭を預けた。
窓の外を眺める。 5月の風が薫っているであろう外の天気は、悪くなかった。
「ねぇ、龍子」
「なんだい?」
「思ってたより早いけど……。 あの話、そろそろ、いいかなぁ?」
むしろ明るい気軽な口調に、龍子の顔は形を変えた。
泣きそうなほど、哀しげな表情に。
「社長さん……頼みが、あるんだ」
病院の廊下で、龍子は WRERAの社長に頭を下げた。
社長よりも一足先に戻って仕事を片付けていた霧子は、病院から帰ってきた社長に呼ばれて早々、その話を聞かされた。
「石川さんの──引退式、ですって!?
それをウチで……WRERAの興行でやるというんですか、社長!?」
「霧子くん、声っ。 声が、大きい……」
「も、申し訳ありません。
ひょっとして石川さんが今日参戦交渉に来られたのは、もともとそのつもりで……?」
「いや。 元々は単なる短期参戦の予定だったらしいけどね」
その席で石川が突然の人事不省におちいり、慌てて救急車を呼ぶことになって、その後は病院での出来事に繋がる。
龍子に叩かれた頬はまだ痛むが、今の社長の沈痛な面持ちは、頬の痛みが原因ではなかった。
「今後は龍子くんのエージェント兼コーチに専念する……今日の一件もあって、決意が固まったんだろう。 フリーの選手が選手たちだけでやっていくには、いささかツラいご時勢だしな」
「……残念、ですね。
スレイヤーさんが、もう少し彼女たちを大切にしてあげていれば……」 *b3
「そう思わなくもないが……あちらにも、あちらの都合があるのかもしれん。
ともあれ今は、石川涼美最後の舞台に我々のリングを選んでくれたことを光栄に思おう。
時間は無いが、ファンや石川くんたちに満足してもらえるカードを考えようじゃないか」
第三の声が場に現れたのは、その時だった。
「──その話、ウチもかませてもらえへんか?」
いつから隠れて話を聞いていたのか。
物陰からひょいと現れて片目をつむった小柄な影は、この 5月にデビューを果たす予定の新人、クラリッジ成瀬こと成瀬唯だった。
「おいおい、成瀬っ。 お前また、会社の話に首をつっこむ気か?」
十代も半ばの少女、しかも練習生が団体運営に口を挟むなど普通はありえないが、『また』と言うからには既に前科があるのだろう。
呆れた物言いの社長も、怒っている風ではなかった。
「ええやん、社長? ウチもいろいろ勉強したいねん。
この前の提携話やって、ウチのアドバイスでお得になったわけやし……なぁなぁ?」
「アイデアを出してくれるのはかまわんが……あまりお金のことばかり考えるなよ。 大事なのはあくまでファンと選手、今回は特に石川くんと龍子くんが満足できるか、なんだからな?」
いや、あなたは社長なんだから、もう少しお金のことを考えるべきでしょうに。
──と霧子は思ったが、成瀬の手前、口にするのはやめておいた。
そんな霧子の気持ちを知ってか知らずか、成瀬は霧子の方にもウィンクすると、
「心配ご無用、まかしとき!
お金はもちろん好きやけど、ウチの本質はエンターテイナーやで?
お客さんもみんなも楽しめるカードを考えたるから、せいぜい首を洗って待っといてぇな!」
どこか物騒な言葉とともに、拳で自分の胸を自信ありげに叩いてみせた。 *b4
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