前の章へ ←  小説&SSページへ  → 次の章へ


迷宮に迷いし蝶 [3]

[ 文字サイズ: | | | 標準 ]
[ フォント: ゴシック | 明朝 | 標準 ]

 夕闇の訪れはまだ遠いはずが、にわかに広がりだした雨雲のせいで、人々には照明の助けが必要になってきていた。

 それは、比較的日当たりの良いジムの休憩室も例外ではない。
 度合いを増していく薄暗さにそろそろ限界を感じてきたのか、柳生は椅子から立ち上がると、壁に歩み寄った。 他の二人を軽く見やり、異論は無さそうだと判断してから、スイッチを押す。

「やっぱり……早瀬さん遅すぎるっス!」

 電気が点くのを待っていたかのように声を上げたのは、真田だった。

「自分と別れてから二時間、戻ってこないし連絡も来ない。 携帯にかけても繋がらないって……絶対おかしいっス! 何かあったに違いないっスよ!」

「だから、お前が早瀬さんを監視していればよかったのだ」

 などとは千里の前で言えるはずもなく、柳生は横目で真田をひと睨みしただけで、無言のまま席へと戻った。
 さすがに察したのか肩身を狭くした真田は、柳生から見て左手のソファにもたれている。

 椅子に座りなおした柳生は、真田とは反対側、ほぼ正三角形を描く位置に立った千里が身体を動かしたことに、目の端で気付いた。
 顔を向けると、千里はポケットから携帯を取り出していた。 音はしないが、どうやらバイブ機能で振動しているようだ。

「早瀬さんか!?」

「メールですね」

 ひとまずそう答えてから、千里は携帯の画面を見た。

「違う人からです」

 そうか、と思わず浮かせた腰を下ろす柳生。
 身を乗り出した真田も、嘆息とともにソファに背を戻した。 そのまま天を振り仰ぐと、身悶えまでしながら呻き出す。

「うーっ……心配っス! きっと、あの鉄扇なんか持ってる時代錯誤女! あいつが早瀬さんに何かしやがったに違いないっスよ!」

「あら、とんだ誤解ね」

 三対の視線が、即座に声の出どころを向きかけ倍の速度で戻って、別の場所に焦点を合わせた。
 真田の顔のすぐ横、ソファを大きく抉って刺さった、鉄扇に。

「来ていきなり、よくわからない濡れ衣を着せられるとは思わなかったわ。 随分とご挨拶な人たちだこと」

 今度こそ、視線が声の主に集まった。
 二本めの鉄扇を手に、休憩室の戸口にもたれかかる、緑なす黒髪の主に。

「こ、こ、こ、こと、け!」

「寿、京那……!」

 ニワトリのような声を上げる真田に代わって、柳生が唸った。 既に立ち上がって構えを取り、油断無く周囲の気配を探っている。

「一人のようだが……何用だ。 何の断りも無くここまで入ってきて物まで投げるとは、そちらこそ随分なご挨拶ではないか」

「あぁ、それもそうね、ごめんなさい。 海外が長かったものだから」

 どこの国にもそんな風習はあるまい、と思ったが、柳生は話を先に進めることを選んだ。

「さっき濡れ衣と言ったが、本当か? おぬしたちが、早瀬さんに何かしたわけではないのだな?」

「早瀬って、早瀬葵さんよね。 知らないわ。 彼女に何かあったのかしら?」

「買い物に出たきり、戻ってこない。 連絡も無しだ」

「あら、それは大変だこと。 でも、買い物ぐらいで騒ぐなんて、子供みたい。 迷子なら警察にでも

 京那はそこまで言ってから、薄笑いを突如中断した。 閉じたままの扇子を艶やかな唇に当て、何か考えを巡らすと、

「お待ちなさい。 一度、調べさせるわ」

 携帯を取り出し、片手で開いた扇子で口元を隠してあまり意味は無さそうだどこかへ連絡を取り始めた。
 私よ、から始まった居丈高な口調からすると、部下宛だろうか。
 早瀬の行方不明と、「もしかしたら」という思わせぶりな言葉、そして足取りを調べなさいとの指示だけ伝えて、一方的に電話を切る。

「へえぇ。 やっぱ、心当たりがあるってことっスね?」

「後で話すわ。 先に本題と行きましょう」

 真田の当てこすりを平然と返して、京那は扇子をぱちんと閉じた。

「回りくどいのは嫌いだから、単刀直入に言うわね。 今日はあなたをスカウトに来たのよ、桜井千里さん」

 千里が、顔を上げた。
 柳生と真田の視線も、京那から彼女へと移動する。
 先ほど届いたというメールを読んでいたのか、千里の手には携帯が握られたままだった。

「あの子零に完敗したとはいえ、あなたの先日の戦いぶりはなかなかだったわ。 それで、少し調べさせてもらったの」

 京那は千里の方を向いて言ったが、千里のさほど驚いたようにも戸惑ったようにも見えない表情は、彼女には期待外れだったのかもしれない。
 そのせいか、続く言葉は、右前の千里本人ではなく、左前の窓に向けて放たれた。

「正直、驚いたわ。 目立った格闘技経験や実績も無いのに、あれだけの動きができるなんてね。 何より、零を相手に最後まで勝負を捨てず、負けた後も腐ることなく高みを目指している、その姿勢が気に入ったのよ」

 言葉を区切った京那の手元で鉄扇が弾かれ、音を立てた。 演出というよりもむしろ、彼女の癖だろう。

「けれどこのままでは零との差は広がるばかりよ。 ロクな設備もコーチもいない、こんなさびれたジムでいくら修行しても、ね」

 もともと睨むようだった柳生と真田の表情が、一段と険しくなった。 特に真田は今にも飛び出して噛み付かんばかりだったが、京那はどこ吹く風で窓の外を眺めている。
 じきに、一雨来そうだった。

「私たちと一緒に来なさい、千里さん。 あなたを、もっと強くしてあげる」

「馬鹿っスか!!」

 一刀両断したのは、真田だった。

「千里さんが、んなことオッケーするわけないでしょうが! あんたらが何をやってきたか、胸に手を当てて考えてみろっス!」

「あなたには訊いていないわ」

 絵に描いたような冷笑が、真田に向けられた。

「零と一緒に行動しろなんて言うつもりもない。 あの子を倒すつもりでもかまわないの。 いえ、むしろそのつもりなら、零と同じ強さを手に入れる方が近道ではなくて?」

「だ、だからって、そんな裏切りがっ!!」

黙っていろ、真田」

「でも、柳生さん!?」

「黙れ」

 真田を押し黙らせた鋭い眼光は、真田ではなく京那を見据えていた。
 怒りを堪えているようにも見える表情の中で、しかし柳生は内心、ありえない話ではない、とも思っていた。

 千里について、である。

 強さに対する、純粋なまでの執着心早瀬にも話した千里の特質を考えれば、京那の提案は極めて魅力的なはずだった。
 加えて、自分たちや早瀬と違い、千里は京那に直接的な恨みを持つわけでもない。
 好んで敵の軍門に下る気は無いにしても、獅子身中の虫となることへの抵抗は、さほど大きくないはずなのだ。

 果たして、どういう答えを選び出すのか柳生は、神妙な面持ちで千里の方を向いた。
 真田もそれを追い、最後に京那が加わった。
 奇妙なことに、事ここに至るまで、誰も話の中心人物である千里を見ていなかったのだ。
 ようやく注目が集まった中で、当の千里が取っていた行動は、三人の誰の想像とも異なるものだった。

 千里は、まるで今の話など聞いていなかったかのように、携帯電話のキーを叩き、メールを打っていたのである。

「ち、千里さん……?」

 声を上げた真田だけでなく、程度の差こそあれ、全員があっけに取られていた。 京那など、明らかに頬が引きつっている。
 不穏なまでの沈黙が場を支配し、それは千里がメールを書いている間、続いた。

当て馬か、かませ犬ですか?」

「えっ?」

 送信のボタンを押すと同時に千里が放った一言に、京那は即座に対応できなかった。
 かろうじて反射的に発せられた京那の問い返しは無視して、

「お話は分かりました」

 千里は、携帯を閉じた。
 プラスチックが奏でる音を挟んで、言葉を続ける。

「全く、興味はありません」

 真田の顔は明るい色に染まり、柳生のそれは安堵と驚きに染められた。
 残った京那は、眉の片方をわずかに吊り上げて、千里に念を押す。

「決断が早すぎるのではなくて? 感情だけで物事を判断しないほうがいいわよ?」

「私にとって良い話だとは、全く思えません」

 千里は、わざわざ言い直した。 京那の顔が、憮然の一色に染まっていく。
 その顔に真正面から瞳を合わせ、千里は最後に付け加えた。

「私は、寿零のあなたたちの強さには、興味がありませんから」

 京那の眉が、理解不能というシグナルで震えた。

「それは、どういう

 意味かと問う言葉を呑み込んで、京那は目線を自分の腰へと移した。
 軽い舌打ちとともに手を差し込み、携帯電話を取り出す。
 バイブでの振動は千里の時と同じだったが、こちらはメールではなく電話だった。

「何よっ?」

 不機嫌な声で、どこか遠くの哀れな部下を萎縮させてから、京那は報告に耳を傾けた。

第四章へ

本章あとがき


前の章へ ←  小説&SSページへ  → 次の章へ


トップへ
(C)2008 松永直己 / TRYFIRST
(C)2005 松永直己 / SUCCESS 運営サクセスネットワーク
(C)2005 松永直己 / SUCCESS
All rights reserved.
当コンテンツの再利用(再転載、再配布など)は禁止しております。
※画像等については「このサイトについての注意書き」もご覧下さい。