夕闇の訪れはまだ遠いはずが、にわかに広がりだした雨雲のせいで、人々には照明の助けが必要になってきていた。
それは、比較的日当たりの良いジムの休憩室も例外ではない。
度合いを増していく薄暗さにそろそろ限界を感じてきたのか、柳生は椅子から立ち上がると、壁に歩み寄った。 他の二人を軽く見やり、異論は無さそうだと判断してから、スイッチを押す。
「やっぱり……早瀬さん遅すぎるっス!」
電気が点くのを待っていたかのように声を上げたのは、真田だった。
「自分と別れてから二時間、戻ってこないし連絡も来ない。 携帯にかけても繋がらないって……絶対おかしいっス! 何かあったに違いないっスよ!」
「だから、お前が早瀬さんを監視していればよかったのだ」
──などとは千里の前で言えるはずもなく、柳生は横目で真田をひと睨みしただけで、無言のまま席へと戻った。
さすがに察したのか肩身を狭くした真田は、柳生から見て左手のソファにもたれている。
椅子に座りなおした柳生は、真田とは反対側、ほぼ正三角形を描く位置に立った千里が身体を動かしたことに、目の端で気付いた。
顔を向けると、千里はポケットから携帯を取り出していた。 音はしないが、どうやらバイブ機能で振動しているようだ。
「早瀬さんか!?」
「メールですね」
ひとまずそう答えてから、千里は携帯の画面を見た。
「違う人からです」
そうか、と思わず浮かせた腰を下ろす柳生。
身を乗り出した真田も、嘆息とともにソファに背を戻した。 そのまま天を振り仰ぐと、身悶えまでしながら呻き出す。
「うーっ……心配っス! きっと、あの鉄扇なんか持ってる時代錯誤女! あいつが早瀬さんに何かしやがったに違いないっスよ!」
「あら、とんだ誤解ね」
三対の視線が、即座に声の出どころを向きかけ──倍の速度で戻って、別の場所に焦点を合わせた。
真田の顔のすぐ横、ソファを大きく抉って刺さった、鉄扇に。
「来ていきなり、よくわからない濡れ衣を着せられるとは思わなかったわ。 随分とご挨拶な人たちだこと」
今度こそ、視線が声の主に集まった。
二本めの鉄扇を手に、休憩室の戸口にもたれかかる、緑なす黒髪の主に。
「こ、こ、こ、こと、け!」
「寿、京那……!」
ニワトリのような声を上げる真田に代わって、柳生が唸った。 既に立ち上がって構えを取り、油断無く周囲の気配を探っている。
「一人のようだが……何用だ。 何の断りも無くここまで入ってきて物まで投げるとは、そちらこそ随分なご挨拶ではないか」
「あぁ、それもそうね、ごめんなさい。 海外が長かったものだから」
どこの国にもそんな風習はあるまい、と思ったが、柳生は話を先に進めることを選んだ。
「さっき濡れ衣と言ったが、本当か? おぬしたちが、早瀬さんに何かしたわけではないのだな?」
「早瀬って、早瀬葵さんよね。 知らないわ。 彼女に何かあったのかしら?」
「買い物に出たきり、戻ってこない。 連絡も無しだ」
「あら、それは大変だこと。 でも、買い物ぐらいで騒ぐなんて、子供みたい。 迷子なら警察にでも──」
京那はそこまで言ってから、薄笑いを突如中断した。 閉じたままの扇子を艶やかな唇に当て、何か考えを巡らすと、
「お待ちなさい。 一度、調べさせるわ」
携帯を取り出し、片手で開いた扇子で口元を隠して──あまり意味は無さそうだ──どこかへ連絡を取り始めた。
私よ、から始まった居丈高な口調からすると、部下宛だろうか。
早瀬の行方不明と、「もしかしたら」という思わせぶりな言葉、そして足取りを調べなさいとの指示だけ伝えて、一方的に電話を切る。
「へえぇ。 やっぱ、心当たりがあるってことっスね?」
「後で話すわ。 先に本題と行きましょう」
真田の当てこすりを平然と返して、京那は扇子をぱちんと閉じた。
「回りくどいのは嫌いだから、単刀直入に言うわね。 ──今日はあなたをスカウトに来たのよ、桜井千里さん」
千里が、顔を上げた。
柳生と真田の視線も、京那から彼女へと移動する。
先ほど届いたというメールを読んでいたのか、千里の手には携帯が握られたままだった。
「あの子──零に完敗したとはいえ、あなたの先日の戦いぶりはなかなかだったわ。 それで、少し調べさせてもらったの」
京那は千里の方を向いて言ったが、千里のさほど驚いたようにも戸惑ったようにも見えない表情は、彼女には期待外れだったのかもしれない。
そのせいか、続く言葉は、右前の千里本人ではなく、左前の窓に向けて放たれた。
「正直、驚いたわ。 目立った格闘技経験や実績も無いのに、あれだけの動きができるなんてね。 何より、零を相手に最後まで勝負を捨てず、負けた後も腐ることなく高みを目指している、その姿勢が気に入ったのよ」
言葉を区切った京那の手元で鉄扇が弾かれ、音を立てた。 演出というよりもむしろ、彼女の癖だろう。
「けれど──このままでは零との差は広がるばかりよ。 ロクな設備もコーチもいない、こんなさびれたジムでいくら修行しても、ね」
もともと睨むようだった柳生と真田の表情が、一段と険しくなった。 特に真田は今にも飛び出して噛み付かんばかりだったが、京那はどこ吹く風で窓の外を眺めている。
じきに、一雨来そうだった。
「私たちと一緒に来なさい、千里さん。 ──あなたを、もっと強くしてあげる」
「馬鹿っスか!!」
一刀両断したのは、真田だった。
「千里さんが、んなことオッケーするわけないでしょうが! あんたらが何をやってきたか、胸に手を当てて考えてみろっス!」
「あなたには訊いていないわ」
絵に描いたような冷笑が、真田に向けられた。
「零と一緒に行動しろなんて言うつもりもない。 あの子を倒すつもりでもかまわないの。 いえ、むしろそのつもりなら、零と同じ強さを手に入れる方が近道ではなくて?」
「だ、だからって、そんな裏切りがっ!!」
「──黙っていろ、真田」
「でも、柳生さん!?」
「黙れ」
真田を押し黙らせた鋭い眼光は、真田ではなく京那を見据えていた。
怒りを堪えているようにも見える表情の中で、しかし柳生は内心、ありえない話ではない、とも思っていた。
千里について、である。
強さに対する、純粋なまでの執着心──早瀬にも話した千里の特質を考えれば、京那の提案は極めて魅力的なはずだった。
加えて、自分たちや早瀬と違い、千里は京那に直接的な恨みを持つわけでもない。
好んで敵の軍門に下る気は無いにしても、獅子身中の虫となることへの抵抗は、さほど大きくないはずなのだ。
果たして、どういう答えを選び出すのか──柳生は、神妙な面持ちで千里の方を向いた。
真田もそれを追い、最後に京那が加わった。
奇妙なことに、事ここに至るまで、誰も話の中心人物である千里を見ていなかったのだ。
ようやく注目が集まった中で、当の千里が取っていた行動は、三人の誰の想像とも異なるものだった。
千里は、まるで今の話など聞いていなかったかのように、携帯電話のキーを叩き、メールを打っていたのである。
「ち、千里さん……?」
声を上げた真田だけでなく、程度の差こそあれ、全員があっけに取られていた。 京那など、明らかに頬が引きつっている。
不穏なまでの沈黙が場を支配し、それは千里がメールを書いている間、続いた。
「──当て馬か、かませ犬ですか?」
「えっ?」
送信のボタンを押すと同時に千里が放った一言に、京那は即座に対応できなかった。
かろうじて反射的に発せられた京那の問い返しは無視して、
「お話は分かりました」
千里は、携帯を閉じた。
プラスチックが奏でる音を挟んで、言葉を続ける。
「全く、興味はありません」
真田の顔は明るい色に染まり、柳生のそれは安堵と驚きに染められた。
残った京那は、眉の片方をわずかに吊り上げて、千里に念を押す。
「決断が早すぎるのではなくて? 感情だけで物事を判断しないほうがいいわよ?」
「私にとって良い話だとは、全く思えません」
千里は、わざわざ言い直した。 京那の顔が、憮然の一色に染まっていく。
その顔に真正面から瞳を合わせ、千里は最後に付け加えた。
「私は、寿零の──あなたたちの強さには、興味がありませんから」
京那の眉が、理解不能というシグナルで震えた。
「それは、どういう──」
意味かと問う言葉を呑み込んで、京那は目線を自分の腰へと移した。
軽い舌打ちとともに手を差し込み、携帯電話を取り出す。
バイブでの振動は千里の時と同じだったが、こちらはメールではなく電話だった。
「何よっ?」
不機嫌な声で、どこか遠くの哀れな部下を萎縮させてから、京那は報告に耳を傾けた。
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