「あーもう、疲れたなぁ。 お巡りさんたち、もうちょっとテキパキ仕事して欲しかったよねっ」
「同感です」
夜の住宅地を並んで歩く、早瀬と千里。
時計の針は、夜の十時を回っていた。
警察署では事情聴取やら書類作成やらでのんべんだらりと無駄な時間を取られ、さらには二人が被害者なのか加害者なのかという議論まで起こり、早瀬と千里は留置場での夜明かしも覚悟した。
ところが驚いたことに、相手の女たちが『拳法の試合』と言い張ったとのことで、加害者の線は消滅。 早瀬と千里は被害者として事件にするつもりもなく、急転直下解放されることになったのだった。
最後に二人を送り出した老齢の刑事によれば、「大の男が二十人近く娘二人にやられたとあっちゃ、そりゃ道場の面目がたたんわな」とのことである。
「でも、本当に大丈夫かな? あの人、議員の奥さんとか言ってたし。 嫌がらせとか復讐とかされちゃったら……」
「それは大丈夫でしょう。 恥ずかしい写真を撮っておきましたので」
「あ、あの。 千里ちゃん、いつの間に?」
「冗談です」
と言いながら、千里は携帯電話で何やらデータをチェックしている。
傍らを歩く早瀬は、ただ空笑いを浮かべた。
どこからどこまでが本気なのか、千里の冗談はどうにも分からない。
もう少し付き合えばコツが分かるかもしれなかったが、その時間は無さそうだった。
「さてと。 私は、ここでお別れかなぁ」
唐突な宣言に、千里は困惑を湛えて早瀬を見た。
マンションの前まで来て立ち止まった早瀬は、手を後ろに組んで千里に笑いかける。
「これ以上、私はここにいない方がいいかなーって。 私のせいで千里ちゃんまで巻き込んじゃって、いろいろ迷惑かけちゃったしね」
「それはまあ、そうですね」
千里は、容赦が無い。
彼女は冗談のつもりかもしれないが、判断するにはやはり付き合いが不足していた。 ううっ、と身を小さくする早瀬に、千里がさらなる追い討ちをかける。
「そう思っているなら、別れるのは迷惑料を払ってからにしてもらえますか?」
「迷惑料って……あのぉ、私、お金は……」
「身体で払ってください」
今度はさすがに冗談だろうと思い、しかし千里の目が真剣なのに気付いて、早瀬の身体は固まった。
内心では、わたわたと慌てている。
だから、
「私に、早瀬さんの技を──プロレスを、教えてくれませんか」
という千里の言葉を聞いても、すぐには反応が返せなかった。
「ちょうど休みです。 年上の方との旅行も、悪くはありません。 それぐらいの貯金は、私にもありますし」
「あ、あのね、千里ちゃん。 旅行とかお金とか、そういう話じゃなくって。 ね?」
「私は、強くなりたいんです」
──強いストライカーを、連れてきなさいな。
早瀬の脳裏に閃いたのは、かつて耳にした女の声。
そして、彼女が天使とも見まがえた、淡い蒼光に浮かび上がる千里の姿だった。
「……でも。 でもね、千里ちゃん……」
「夕ごはん」
「え?」
「夕ごはん、作ってくださったんですよね」
千里は、いつの間にか背を向けていた。
マンションの入口に向いた身体、その顔だけを肩越しに振り向けて、
「二人分を、私一人に食べさせる気ですか? 責任もって付き合ってください」
その頬が、夜目にもわかるほど紅くなっているのを見て──とうとう早瀬は、観念した。
「うん!」
空には、蒼い月。
早瀬が作っておいた二人分の夕食は、温め直しても十分に美味しいものだった。
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