「ワン……!」
カウントが入り始めても、観客の誰一人として危機感は抱かなかった。
試合も終盤。 そこへ来てカウント1でフォールを返すなど、青い新人のやることだ。 今リングで戦ってるのは、誰だと思っているんだ?
「ツー……!」
二つ目の音を聞いても、会場全てが落ち着いていた。
ただ一人、マットを叩いたレフェリーだけが違和感に気付いて、振り上げた手を一瞬止める。
この腕をもう一度振り下ろしてしまってよいのだろうか。 取り返しのつかないことになりはしないだろうか。
だが、彼は自らの職務に忠実な男だった。
「ス……」
素早く、しかしこの上なく慎重に腕を振り下ろす。
肩がいつ上げられても対応は可能だ。 手がマットに届くその瞬間まで、身体ごと転がってでもカウント3は回避できる。
だから、早く。 早く、その肩を上げてくれ。
そうでなければ。 ああ、そうでなければ──
「スリー……ッ!?」
控えめな、しかし紛うことなき三つ目の音が、マットを叩く。
その瞬間──世界は全ての色を失った。
「…それは、マイティ祐希子を挑戦者に指名するという意味なの…?」
「──ああ」
8月初旬。
スレイヤー・レスリングのジムに併設された休憩室。
ペットボトルを唇から離して問いを発した森嶋亜里沙に、サンダー龍子は自販機のボタンを押しながら頷いた。 独特の音を立てて、取出口にスポーツドリンクの缶が転がってくる。
「先月の交流戦と、NA王座戦。
あんたと私は、揃って祐希子の奴に負けちゃったからね。
おかげで、スレイヤーにはあいつに勝てる選手はいない、なんて声が大きくなってるらしいんだ」 *1a
「…言わせておけばいいわ。
少なくとも私は、次こそ勝ってみせるもの…」
「私だって、いつまでも負け続けてるつもりはないよ。
ただ、事は勝ち負けだけの問題じゃなくなってきてるのさ。
スレイヤー無差別級……私が持ち、あんたが狙ってる王座が、今や NA王座より数段下のローカル王座扱いされてるんだよ。 上原さんから受け継いだあのベルトまでもが……ね」
静かな声に割り込んで聞こえてきた異様な音に、森嶋が龍子の手元を見た。
自販機から取り出したばかりのアルミ缶が半ばまで握り潰され、弾けたプルトップから透明な液体が溢れ出している。
手元を伝ってくる冷たさでようやくそれに気付いた龍子は、苦笑とともに缶を左手に持ち替えた。 右手を振って、雫を床に撒き散らす。
「ま、そんなわけでね。
あんたとの防衛戦は11月予定だけど、その次、1月か 2月のスレイヤー王座戦には、祐希子に出てきてもらうつもりなんだ。
“最強”なんて言われるあの NA王者に勝って、私らが誇るベルトの価値を証明するためにね」
「…マイティ祐希子と、うちのフロント。……どちらも、OKすると思って…?」
「祐希子の奴は、多分ね。
社長と井上さんは……こっちは、状況次第ってとこかな。
つまり、勝ち目があるかどうか、の打算で決めてくると思うよ。
──どうして私が今、あんたにこんな話をしてるのか。 わかるかい? 森嶋?」
唐突に向けられた質問に、森嶋は眉を寄せた。
質問の答えが思いつかなかったからではなく、答えそのものが腹立たしかったからだ。
「…私には勝ってベルトを防衛できる。 あなたがそう思っているから、でしょう…?」
「違うね」
思いもしなかった即答に、森嶋はもう一度眉を寄せた。
その困惑を見透かしたように、龍子が言葉を続ける。
「もちろん、私はあんたに勝つつもりさ。
だけどどっちが勝ったって、祐希子に勝てないなら──少なくともウチの社長たちがそう思うスレイヤー王者なら、意味が無いんだよ。
だから今、私はあんたにこの話をした。 あんたに今よりも強くなってもらうためにね。
そのあんたに勝った私なら祐希子にだって勝てる──周りにもそう思わせるために、さ」
「…………。つまらない話ね…」
興味が失せたように溜め息をつくと、森嶋は腰を上げた。
まだわずかに中身が残るペットボトルを専用のゴミ箱に押し込んで、龍子の脇を抜けていく。
「…言われなくても、私は強くなるわ。
あなたから王座を奪い、相手が誰であろうと、それを守り通してみせる…」
「……今月の防衛戦だ。
その後のマイクで、私はぶち上げるつもりだよ。
マイティ祐希子との、スレイヤー王座防衛戦をやるってね。 それでいいかい?」 *2a
「…誰であろうと、と言ったでしょう? それがたとえマイティ祐希子であってもよ…」
それだけ言い残して、森嶋はジムへと戻った。
だから、龍子がどんな顔をして彼女を見送ったか、彼女には知りようがなかった──
──悲鳴と怒号。
森嶋の意識を過去から現在に引き戻したのは、打ち鳴らされるゴングを追うように四方八方から響き渡るそれらだった。
「………龍子……あなたは………」
関係者席からの呟きは、リングの上まで届くはずもない。
ましてや、渦を巻いて大きくなる会場の叫びと、それに掻き消されないようにとがなりたてるスピーカー放送の中では尚更だ。
《物を投げないでください! 危険です! 物を投げないでください!》
むしろその声を合図としたかのように、リングめがけて次々と物が投げ入れられる。
本来であればベルトの授与式が行なわれるはずのリング上は、瞬く間に、ゴミやペットボトル、さらには缶やビンまでもが降りかかる、危険地帯と化してしまった。
「め、めぐみ! 早くっ!」
「なにやってんだ、テメェら! さっさと降りてきやがれ!」
セコンドについていた結城千種が、リングに上がって腕を掴んだ。
こちらはいち早く難を逃れて花道途中から呼びかける村上千秋に追いつくべく、二人でリングを降りようとする。
「──武藤っ!」
一直線に自分まで届いた鋭い声に、武藤めぐみは振り返った。
もはや足の踏み場もないほど物が降り注ぐ豪雨の中で、リングに毅然として屹立する背中。
その背がわずかに向きを変え、めぐみと視線を交わした。
「してやられたねっ。 そいつは預けておいてやるよ。
だけど、すぐに私の方から取り返しに行ってやる!
だから、いいかい──それまで負けんじゃないよ!」
雄々しくそして気高い龍の微笑みが、めぐみの瞳に飛び込んできた。
なぜだかそれが、無性にうれしくて──
「はい! 今日は、ありがとうございました!」
めぐみは龍子に、力強い頷きを返した。
精一杯の笑顔とともに。
スレイヤー・レスリング 8月最終戦、最終試合。
スレイヤー無差別級選手権試合、サンダー龍子 VS 武藤めぐみの一戦は、試合開始から 22分49秒、不知火からの体固めで挑戦者・武藤めぐみが大番狂わせの勝利。 *3a
ブレード上原が五度、サンダー龍子が十九度の防衛を重ねたスレイヤー最高位王座。
団体の至宝とも言えるそのベルトは、制定から 7年と4ヶ月を迎えたこの月、初めて他団体選手の手に渡ってしまったのである。
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